フリー編集者の人生を見つめる日誌

〜生きることってどんなこと〜

情報の海とやら

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自分の人生を大切に生きるってなんだろうか。人生というか、目下暮らし。例えば、自然に囲まれた山のなかで、太陽の動きとか、雲の動きとか、雨の音とか、虫の音を感じながら、その土地で採れる野菜を食べて、あまりインターネットは見ずに暮らすことだろうか。それはとても幸せな気がする。

インターネット(ソーシャルメディアに限らず)を見ていると、日々トレンドが移り変わり、ああ、そういえば一昨年はあれが流行ってたんだっけ、そういえばこんなものもあったよね、という具合です。全然覚えていられない。毎日信じられないほどの情報が飛び交って、とあるウェブマガジンでは、数日前に遡るのも大変な状況。こんなに記事を出して一体どうするんだ。とはいえ、かくゆう私もウェブマガジンでお仕事をしているから、そんな媒体に対して、ぽんぽん記事を排出してゆく排出マシーンである。

一時期、自分の信条とやっていることがあまりにも違うんじゃないか、なんて思い悩んだこともあるけれど(なんなら2018年にはそのことで不安神経症を患った)、今はこう思っている。いや、生活(お金)には変えられないよ、だって信条で飯が食べていけるわけじゃないもの。だから折り合いを見つけるべきだと思う、もちろん自分の場合は。今は折り合いがついているから大丈夫。

そう、話は戻るけれど、どんどんものごとが流れていって、新しいものが出てきて、そしてまたさらさら流れて、みんなの頭にはほんの少しの記憶しか残らない。

私が敬愛して止まない岡崎京子の漫画『ヘルタースケルター』にこんな一節があるよ。

「みんな何でもどんどん忘れてゆき ただ欲望だけが変わらずあり そこを通りすぎる 名前だけが変わっていった」

「みなさんはいつもとても飽きっぽい」

他にもこう言った名言があるのだけれど、ちょっと今手元に漫画がないので引用できず。つまりそう、みんな飽きっぽいのだ。でもこれはネットがまだない時代に描かれているものだから、人間はネットがあるなしに限らず飽きっぽい生き物なのかもしれない。

ただ、どうしたら外の声に惑わされたり、垂れ流しの情報に洗われず、自分の生活というものを、きちんと、はたまたてきとうにやっていけるのか。結局、人間って、どうしても影響を受けやすいし、そして自分のことを発信したい生き物なのだから、少なからずどんなふうに暮らしたって、音は入ってくるし、そして自分も誰かに対して音を与えてしまっているのだと思う。ザーザーのノイズに疲れると、実家に帰って携帯も見ずに暮らす。これが今の私にできる唯一のこと。