フリー編集者の人生を見つめる日誌

〜生きることってどんなこと〜

3年ぶりに、こんにちは。

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誰も見ていなくてもいいじゃないか、自分のために言葉を残そう。いつの間にか忘れ去られていたこの日記。本日発掘いたしました。

 

あれから私はどうなったか。

3年前、いや4年前? 私はまだバンコクに住んでいて、「たいちょうがわるい」という日記を残しているけれど、それはパニック発作というものでした。(後から気づいた)

 

mih0o0o0.hatenablog.com

 

そして、編集者をやめ、栃木に戻って陶芸家を目指すことにし、益子というやきものの産地で、修行を始めたのであった。が、それも束の間、「たいちょうがわるい」は「とてもたいちょうがわるい」になり、「もうだめだ、むり」になった。はじめて本当の意味で、メンタルの調子を崩した。

 

心療内科では、「パニック障害」ないし「全般性不安障害」と言われ、漢方の先生には「不安神経症」と名付けられた。そうしてやきものの産地の山から降り、関東平野にある地元へと戻った。そこで私が何をしていたというと、頭をぐるぐるさせながら生きていた。風呂に入っては「自分が分解する!」という恐怖を覚え、キッチンに足を踏み入れては「人を殺してしまう!」と自分を恐れ、あーでもないこーでもない、と頭を揺らしていた。その間、まんじゅう屋でバイトもした。

 

漢方の先生のことは、10年以上前からお世話になっていて、とても信頼していた。先生に相談に行くと、私が悩んでいたことをスッと見抜いてしまって、「陶芸は、やめていいよ」と言ってくれた。肩の荷が降りた。決めたことはやり抜かなければ! 失敗はしてはいけない! と思って生きていたせいで、自分の首を締めていた。ずいぶん楽になって、心療内科でもらった、脳味噌の働きを弱める薬を止めた。あれを飲んでいたら、私はいまよりもっとバカになっていたかもしれない(何にも集中ができなくなっていたから)。

 

少しずつ、元気と勇気が戻ってきて、漢方の先生には「11月になったら東京に出られるよ」と言われた。だけど11月になっても私には東京に出る自信がなかった。先生は「3月、3月になったら大丈夫」と言ってくれた。まんじゅう屋で働きながら、あるときフリーランス編集者の友達から、代打で取材に行ってほしい、と連絡があった(ちなみに私はずっと編集ライターをやっていた)。その取材は四国を何箇所かめぐって、伝統工芸などの作り手に話を聞く、というものだった。すごくやりたい、でも怖い。家から出るのも怖いのに、私がまさか取材のために数日泊まり込みでどこか遠くへ行けるなんて、到底思えない。そんな時、「森田療法」の本の中で見つけた言葉が頭を過ぎる。「怖くても、やりたいこと、すべきことをやる」と言ったことだったと思う。つまり目的本意で、恐怖はあるがままにするという考え方なのです。怖い、だから逃げるのではなく、怖い、でもやりたいのだから、やってみる。恐怖突入とも言うらしいね。そうして私は、この取材を受けることにしたのです。

 

まずは鳥取、それから島根、山口、長崎、福岡、福井、金沢とめぐった。たったの3日で。毎日時速160kmで駆け抜ける車に乗り、意識朦朧としながら、でもカメラマンさんやディレクターに病気とは告げず、やり切った。そうして地元へ帰る頃、私には自信が戻ってきていた。自信は羽がある鳥のようなもので、どこかへ飛び立ってしまっていたのだけれど、また戻ってきた。「戻ってきた」と言うフレーズを聞くと、『もののけ姫』のラストの方でおっこと主様が言う、「戻ってきた。黄泉の国から戦士たちが帰ってきた。続け! 戦士たち! シシ神の元へ行こう!」を思い出してしまう(関係なさすぎ)。

 

そうして、2020年3月、晴れて私は東京に戻った。世はすでにコロナ禍となり、あまり喜んでばかりはいられない状況だったけれど、私は嬉しかった。自分の足でこの世界をまた歩けることがとても嬉しかった。しかも東京に戻る頃には、出版社での業務委託も決まり、生活の安定が見えた。

 

そうして2022年5月のいま、私は元気と自信をまだ傍に抱えている。たまに気持ちが落ち込むこともあるけれど、仕事は順調で、引っ越して一人暮らしも始めた。昨年はロサンゼルスへも行き、今年はピートに会いにタイへ行った。そうだ、ピートとは入籍までしてしまった。時間と共に生活は変わる。

 

目下楽しいことと言えば、やはり、絵を描くこと、本を読むこと、韓国ドラマを観ること、植物を愛でること、山登り、旅行でしょうか。そういえば、初めてのzineもつくった。自慢できるようなものにはならなかったけれど。冊子をつくるって楽しいなと思った。それから文字を書くって楽しい。これからは定期的にちゃんと記録をここに記していこうと思う。

思いついた計画

忘れてしまわないうちに書いておく。

日本に帰って、栃木に住んだら、やりたいこと。

・陶芸の学校通う(決まってること)

・世界中の表現者をインタビューするウェブサイトを立ち上げる

・英語の勉強を真剣にする(スカイプ?)

・ダイエットをする

・料理を作る

・本を読んで映画を見て音楽を聞いて演劇を見て、と、文化に触れる

・東京のカルチャーを掘り下げる(今まで忙しくてできなかったことをやる)

・文章をちゃんと書いていく

・手を動かす

・世界中どこでも稼げる手立てを考える

・新しい友達を作る

 

LAでもいいしアムステルダムでもいいし、どこでもいいといえばいいのだけれど、日本にはまずいたくない。あと、日本よりも発展している国に住みたい気がする。どんな国にもいいところ、悪いところがあるけれど、窮屈な国はいやだ。とにかくたくさんの人種がいて、いろんな意見があっていいところに住みたい。だから、この1年はそういう生活を実現させるための基礎づくりだと思おう。ピートとも暮らしていきたいし。

ミントの香り

特に変わったことはないのだけれど、会社と仕事が憂鬱である。人は一生懸命に、希望を持って生きるべきだと思っている。そうしなきゃいけないわけじゃないし、できない人もいるし、でも、希望を持って生きるのは楽しいし、一生懸命何かをやるのは気持ちがいい。疲れても眠くても忙しくても、なんだかハッピーである。私はやっぱりダラダラ生きていたくないな。南国でボーーーーケーーーーーーッとして、気づいたら年老いてて、っていう浦島太郎みたいな人生じゃなくて、うーん、なんだろう、いい例えがないけれど、とにかく浦島太郎にはなりたくないな。だって悲しいもん。帰ってきたらだーれもいなくなって、自分だけ取り残されてたなんて。だけど今の私って、本当にどうしようもない。やる気がない、頑張れない、楽しくない、尊敬できない、ともう最悪。自分を嫌いになる原因にもなるから、一生懸命できないのはよくないと思います。

 

さて、今日はピーちゃんの誕生日。めでたく28歳になりました。28歳かー。私は28歳でピートに出会ったんじゃなかったっけ。毎年毎年、本当に様変わりするね。諸行無常なのです。全ての物事は移ろいゆくし、いいことばかりも悪いことばかりも続かないと。ある意味さらりとさっぱり諦めている方がいいのかもしれない。お父さんは、諦めの人生だった(とてもいい意味で)。私はあんな俯瞰して見れる人を素敵だなと思う。よく言ってました。諦めが肝心だって。死ぬことだけは生物に共通していて、平等だって。ある意味とても禅の人だったんだと思う。さ、出かけよ。

たいちょうがわるい

ここのところ、本当に体調が悪くて辛かった。めまいはしょっちゅうだし、仕事終わりには、自分が自分じゃないような浮遊感があって、私というものと外の世界とが切り離されて、外にいる人たちは今私からはひとつも声が届かないんじゃないかという、いきなりの疎外感というか、ガラスが一枚あるような感じ。そんなわけだから、ものすごい漠然とした不安が襲ってくる。自分が自分である意識から外れ、コントロールがきかなくなるという恐れ、そしてそのコントロールが効かない自分を、誰も助けることができないという恐怖。会社から駅まで行く間には、もう手にじっとり汗をかいて、硬直してしまっていた。その理由のわからない大きな大きな不安という魔物は、思っていたよりもものすごく大きなものだった。悲しい、落ち込む、傷付いた、そういうのをいままで経験してきて、不安がこんなにも恐ろしいものだとは知りもしなかった。

ああ、めちゃくちゃ自律神経が乱れてるんだな。それはわかる。でも自律神経はそもそも自分の意思ではコントロールできない。だいたい自律神経が乱れているせいで、いつまでたっても過敏性腸症候群だしアトピーだ。でもこれも生まれつき弱いという人がいるのだから、うまく付き合ってくしかない。わかるーわかるんだけど、本当に今回ばかりはまいった。けれど、このことをFBとIGに書いたら、たくさんの人からのメッセージやコメント電話をもらった。私は本当に生かされているのだなと思った。私は完全にひとりで生きているわけではなく、それがSNSやインターネットを通じたものだとしても、私は人に生かされているんだと思えた。そこで、たくさんの人が私みたいなことを経験しているのだと知る。全くもって、私だけではなく、みんなそれぞれが対策を練り、試行錯誤の上、今の生活を築いているのだと思うと、本当に見習わなければいけないことがたくさんある。

そしてやっぱりこういうときに励みになるのは、「大丈夫だよ、これって治る病気だよ。普通の生活送れるよ」という言葉でした。そんなの悩むのに値しない、気が弱ってる、とかそういうのじゃなくてですね、そんな人はいないけれど、あっけらかんと治るよって言われたときのほっとする感じ。このパワーというものはすごいのです。だから私も、悩んでいたり辛い人がいたら、そういう風に背中を押してあげたいと思う。だいじょうぶだよって。

保険と頭が痛い話

10/18(木)仕事終わりに、香港の積立て保険の話を聞きに行った。海外に住んでいるから年金を払ってないし、というかそもそも70歳に伸びた年金、私たちの代いつもらえるか、どのくらいもらえるか、本当わからない。っていうか、いまの政権下、公私混同した政治の中で、湯水のように税金を使われて(もりかけ、武器、東京オリンピックなどなど)、年金なんて絶対払いたくないというのが本音であります。

でもな、もし老後のことを考えるんだったら、何かしら年金のように作用する民間の保険が必要だよな〜と思っていたところであり、巷で最近話題の香港積立ての話を聞きに行ったのでした。で、ものすご〜く利率もいいし、魅力的なんだけど、本当にそんな上手い話しがあるのか??という、保守的な私。こんなときは父の、「そんな上手い話しはそうそうない。ただほど高いものはない」を思い出すのでした。もうちょっと考えないとね。

あ、そうだ、一個思い出した。この商品を売っているセールスのお姉さん、ご自身もかなり投資していて、結婚相手は社長だったから選んだという投資家で、私が仕事やめて日本に勉強にに行くって言ったら、「でもそれ自己投資でしょ?」って。自己投資と言うかやってみたいからやるだけだし、もちろん海外で暮らすという目標はあるんですが、なんか自己投資以外のことは何もしちゃいけないみたいだった(笑)。でも彼女のような合理主義者にいわせれば、そんな無駄な時間を!ってなるんだろうな。

それから一緒に聞きにいったまいこちゃんと、やかんへ飲みに行った。ここのレバ刺しがおいしいんだ〜〜。まあなんでもおいしいんですけども。そこで、よーこさんやあきちゃんに遭遇して、あきちゃんと一緒に二軒目の て に行った。もえちゃんのお誕生日をお祝いします(2日遅れ、プレゼントないし)。相変わらず素敵な店です。素敵な人が作る店は総じて素敵になるという法則、だれか名前つけてませんか?ほんといいよね、って感じで飲み過ぎました。あとあきちゃんにレイキをやってもらったよ。

 

10/19(金)会社着くなり悲惨。ここ数年起こるようになった閃輝暗点(閃輝暗点 - Wikipedia)発症。目がチカチカして一気にめちゃくちゃ具合が悪くなるんですよ。お店だったら倒れる。その後に頭痛くなって、半日はぐったりしてしまう。本当に、今見てる景色に、ギラギラのものがうごうごとしていて、人間の体ってすごいな〜って。とにかく必死こいて原稿終わらせて、夜はピートと金城で鍋を食べて帰宅。家が一番好きだ。

 

ワインが飲みたい

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2011年頃、すごく年上の人と付き合っていて、よくおいしいワインを飲んだ。どういうのがおいしくて、どういうのがおいしくないのか、その人が教えてくれた。渋くて重いのが好きだったから、私のワインに対する味覚もそのときに出来上がった(絶対偏っている)。

タイはワインが高い。日本のセブンで600円くらいの銘柄のものが、2000円以上する。タイと日本の物価の差を考えたら非常に高い。こんなとき東京が恋しくなる。さくっと入ったお店が安くておいしくて、お酒もイケる。なんて、バンコクじゃなかなかない。おいしいみせも一流の店ももちろんたくさんあるけど、総じて高い。高すぎるんですよ。日本の飯はほんとーにコスパが良いよね。アメリカも高い割においしくない。もちろん一概には言えないのはわかっているけど、平均です、平均。はー日本のレストランが恋しい。

 

10/17(水)本日は、会社に行きまして、原稿を書き、昼間に一部の人とごはんに行った。やる気のない仕事は身を滅ぼす。じんわりじんわり魂が抜かれていって、いつか空っぽになってしまう。そうなる前に抜け出したいのだけれど、もうタイミングは決まっているから、もう少し待つ。明日も同じ日が来る。

それと今興味があるのが、香港の積立て保険。この先結婚するかも子どもが生まれるかも、どのくらい働けてお金が稼げているかもわからないので、今から投資を考えないとね〜って、すごーく地味。でも日本人だし、親にアリとキリギリスの話を散々聞かされ、年金ダー貯金ダー言われて育つと、否が応でもそういう方へ考えがシフトしていくのね〜。で、明日は保険レディにお話を伺いにいくのである。

 

はじめること

初めてブログというものを書いたのはたぶん、13歳くらいだったと思う。ヤプログ、とかだった気がする。あのミカン君が印象的な。そこから、携帯へ移行して、いろんなところでブログを書いてた。たまにパソコンに戻ったりして、書いたり書かなかったり、はじめたり止めたりを繰り返す。だからこのブログもきっと続かないんだと思う。

 

でもまたやってみる。日記がほしいから。

 

今日、10/16(火)は、会社に出勤。やっと取材が落ち着いて、ゆっくり原稿が書けるようになったので、どうでもいい服を着て行った。気に入りすぎて、首のあたりに穴が空いている。そういうのって、29にもなってどうかと思う。それに曲がりなりにも編集長みたいなことをやっているんだからさ。でも今日は本当に取材に行くことも、知らない人に会うこともなかったので、いいのです。19時くらいには終わって、いつも通りGrabを呼んでバイクで帰宅。毎度ながら、いつか事故るんじゃないかとヒヤヒヤしている。バンコクのスクンビットロードは怖い。まぁどこも一緒のようなものですけれど。でも、渋滞が酷いし家から駅が遠いので、やはりバイクしかないと思う。どうにか健全に生きていたい。

そうそう、家に帰る前にエムクオに寄って、サイウアとココナッツプリンを買って帰りました。家に着くとピートはもう家にいて、イサーン料理をオーダーしてくれていた。大好きなゲーン・ヘッ。きのこの臭くて辛いスープ。日本人は絶対思いつかないよね〜?っていうのをやってのけるところが好き。今はとてもお腹が痛い。でも辛いのが大好きで、食べた後には汗だくで気持ちいいので止められない。一種のストレス発散です。それでいつもお腹を壊している。舌は大丈夫でも、腸は泣いている。ごめんね。

それからワードプレスをいじっていたら、いままで丁寧に書いたものが消えたので、ほとほとうんざりする。そういうときには、データ社会を憎みたくなります。ちょっとくらい臨機応変にしなよって、怒りたくなりました。でもね、過ぎた過去にすがるのはよくないので、忘れてしまおう。それから、彼がLAの希望の会社に連絡していて、どうやら来て良いよ、とのことらしいけれど、やっぱりビザの問題が大変みたいで、ベルリンかアムステルダムかも視野に入れて悩んでいるみたい。私はなんだかベルリンやアムステルダムの方が住んでみたいと思う。LAは少し、というかかなり、暗い気持ちになりました。でもバンコクのおちゃらけ気分から考えたら、どこの国ももう少しはシビアなのかもしれないな〜。住み易さとやりたいことがやれる場所と好きな人がいる場所と自分がいたい場所、いろいろと噛み合ないけれど、いつかがちっと合わさる国が見つかるといいな。今日はそろそろ寝ます。